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高鍋の先賢 その⑤

久々の「高鍋の先賢」。

今回はこの人!!

「明治法曹界の代表格」

三好 退蔵 (みよし たいぞう)

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1845(弘化2年)~1908(明治41年)

裁判官、弁護士。

 1845年、高鍋藩士の家に生まれ、8歳で明倫堂教授日高耳水のもとで学ぶ。その後上京、安井息軒の門下生になる。

 維新に際しては藩主をよく補佐し、明治2年(1869年)、明治政府に出仕して高鍋藩の少参事を務める。

 廃藩置県により藩が廃されると、秋月種樹(たねたつ)の援助によりロンドンに遊学。国際的な感覚を学ぶ。

 帰国後、地方官や大蔵省官吏を歴任、1873年に司法省入りし、同年勃発した西南戦争における国事犯審理に加わり、大審院の判事として状況を視察する。

 その後、横浜裁判所長、大審院判事、司法少輔になる。

 大審院判事時代、伊藤博文の憲法調査団に同行してドイツなど視察。司法制度調査にあたること3年。帰国後は司法次官となる。

 1890年、3度目のヨーロッパ遊学中に初代検事総長を拝命する。

 在任中の1891年(明治24年)、訪日中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が滋賀県大津市で警護に当たっていた巡査、津田三蔵に斬りかかられ負傷した事件……いわゆる「大津事件」が発生する。

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↑大津事件発生当時の皇太子ニコライ。この事件の3年後の1894年、ロシア皇帝に即位する。後にロシア革命に倒れ、家族ともども処刑された。 

 当時、大国ロシアの報復を恐れ、日本政府は旧刑法116条に規定する、天皇や皇族に対し危害を与えたものに対する罪である大逆罪をもって死刑とすべき、と主張。

 しかし、当時の大審院院長児島惟謙は「刑法に外国人の皇族に関する規定はない」とし、傷害罪を適用すべきと政府の圧力に反発した。

 このとき退蔵は児島の主張に反対し、大逆罪を外国の皇族に対する傷害にも適用すべき、と主張した。

 結果、事件は旧刑法292条の「謀殺未遂罪」を適用、津田三蔵は無期懲役となる。この事件は、司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めた重要な事件となった。

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↑ 児島惟謙(1837~1908)。大津事件の後、「弄花事件」に連座して失脚。その後、貴族院勅撰議員、衆議院議員を歴任する。

 退蔵は後に司法次官に再任。児島失脚のための陰謀といわれた「弄花事件」の捜査を担当するが、強引な捜査に対する非難から更迭された。

 1893年(明治26年)、大審院院長となる。しかし、3年7ヶ月勤めた後、「別所別判事転任拒否事件」の裁判において他の判事と意見を対立させたことが理由で、1896年(明治29年)、辞任する。

 退官後は在野の弁護士となり、さらに東京弁護士会長に推される。

 その間に足尾鉱毒事件がおこり、退蔵は住民側にたって鉱毒問題の根本的解決を求めたほか、日本最初の労働組合である鉄工組合の設立に賛同するなどリベラル派の弁護士として活躍した。

 また、本人は熱心なキリスト教信者であり、キリスト教青年会の初代理事長も勤めている。

 参考文献:高鍋町の文化財 第8集 高鍋の先賢

       高鍋町史

       ウィキペディア

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