高鍋の先賢 その③
不定期連載・高鍋の先賢。
第3弾はこの人!
”最後の連合艦隊司令長官・日本海軍機動部隊の生みの親”
「小澤 治三郎」(おざわ じさぶろう)
生没年:明治19年(1886年)~昭和41年(1966年)
所属:大日本帝国海軍
最終階級:中将
あだ名は「鬼瓦」。駆逐艦上で事故により顔面を負傷し、後遺症で表情が変えられなかったため。
明治19年、元高鍋藩士である父小澤寅太郎とヤ母ヤツの間に次男として産まれた。
少年時代は柔道にいそしみ、その実力は教師を含めて敵なしと言われるほどであったという。
↑小澤治三郎生家(修復されたもの)
宮崎中学校(現・県立宮崎大宮高校)に在籍中、暴力沙汰……言いがかりをつけてきたチンピラを柔道技で橋の下に投げ飛ばした……をおこし、退学処分に。
失意の中、帝国陸軍の軍人だった兄宇一郎の上官、牛島貞雄大尉に、日露戦争中の満州からの手紙で「過ちをあらたむるに憚(はばか)る事勿れ」と檄を送られ、一念発起。上京して成城学校へ転入した。
この牛島大尉の手紙を小澤は終生大切に保管し、その言葉は小澤の座右の銘となった。
明治39年(1906年)、第7高等学校工科に進学するが、同年11月に海軍兵学校の合格に伴い中退。明治42年(1909年)海軍兵学校を卒業。成績は入学当時183人中150番位であったが、卒業時には179人中45番位で大変な前進ぶりであったという。
少尉候補生時の乗艦は巡洋艦「宗谷」。このときの艦長は後に首相となる鈴木貫太郎。候補生の指導は山本五十六大尉(当時)と古賀峯一中尉であった。
↑巡洋艦「宗谷」(写真は一代目)
明治43年(1910年)、少尉に任官。ちなみにこの訓練航海の途中で皇居にて明治天皇に拝謁している。
太平洋戦争開戦直前まで第一航空戦隊司令官を努める。開戦当時は馬来部隊指揮官兼南遣艦隊司令長官。
太平洋戦争初期(1928年/大正17年)、マレー沖海戦で馬来部隊隷下第二二航空戦隊が大英帝国海軍東洋艦隊旗艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを撃沈する大戦果を挙げるが、この報を受けた小澤は、プリンス・オブ・ウェールズ艦長T・フィリップス中将が艦と運命をともにした話を聞き、「いずれ、自分もそうなる」とこぼしたといわれる。
戦時中、南雲忠一中将の後任として第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官に就任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で第三艦隊を率いて出撃する。
マリアナ沖海戦ではアウトレンジ戦法を行うも兵の練度の低さと、高度なレーダー無線、近接信管(VT信管。砲弾にレーダーなどを組み込み、目標から外れても一定範囲内に目標物が入れば起爆する)により高い艦対防空能力を持ったアメリカ海軍の前に失敗。
レイテ沖海戦にあってはすでに帝国海軍の機動部隊はその能力をほとんど失っており、囮として敵艦隊を引き付ける任務を完遂させるも、突入部隊である栗田艦隊が反転したため徒労に終わっている。
レイテ沖海戦の敗戦を受けて第三艦隊、第一機動艦隊が解散した後は軍令部次長に就任。昭和20年(1945年)に連合艦隊司令長官(海軍総司令長官と海上護衛司令長官を兼任)に就任する。 この就任の際、小澤を海軍大将に昇進させる動きもあったが、昇格を断り中将のまま連合艦隊司令長官に就任している。また、軍令承行上の都合で、特旨をもって元帥府に列する案もあったが実現しなかった。
その三ヶ月後の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。終戦を迎えた。
終戦時、自決を叫ぶ部下を厳しく叱責して制止した逸話が残っている。
その際、同僚にも
「君、死んではいけない。大西は腹を切った。宇垣は海に飛び込んだ。皆がそうやっていたら、誰がこの戦争の責任を取るんだ」と言って回ったという。
大西とは大西瀧治郎のこと。「特攻の生みの親」として有名。8月16日、敗戦を見届けて割腹。
宇垣は宇垣纏(まとめ)。玉音放送を聴き、部下11名とともに大分基地から沖縄に向けて出撃、消息不明となっている(敵艦に突入したとも、特攻せずに墜落したともいわれる)。
この、宇垣の行為について、小澤は「自決するなら一人でやれ!」と激怒したという。
戦後は戦時中に関して殆ど語ることなく、世田谷の自宅に隠棲した。一度だけ自分の指揮により多くの部下を死なせた後悔を述べたといわれる。
ただし、防衛庁(現防衛省)の戦史作成には全面的に協力し、自分の体験を私情を挟むことなく克明に述べたといわれる。
昭和41年(1966年)、多発性硬化症のため死去。享年80。
葬儀に際し、昭和天皇は祭祀料7,000円を下賜。アメリカ合衆国戦史研究家モリソン博士より花束とともに「近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」というメッセージが送られた。
祭祀料と集まった香典は小澤の意を汲んで潮会(元海軍兵士の会)に寄付された。
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