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寒山拾得供養祭

5月10日(火曜日)寒山拾得供養祭にいってまいりました。

寒山拾得は舞鶴公園の駐車場中央部から高鍋城跡に登る道の、車止めの左上に、高さ1m位の二体の石像が西向きに立っており

俗に『かんかんさん』『地蔵さん』と呼ばれています。

石井先生より去年は口蹄疫今年に入り新燃岳の噴火・東日本地震色々な災害があり良く願いが叶う寒山拾得に復興を願いますとのお話があり供養祭が始まりました

供養は川南の通り浜の海龍山智淨寺 片寄住職よりとり行なわれました。

ここで寒山拾得由来についてですが

もと串間(串間市)にあったものを藩主秋月氏が江戸の藩邸(東京麻布市本村町)蝦蟇池の畔に安置し、更に明治になって、種樹公が湘南(神奈川県)の片瀬(藤沢)別邸に移した。その後、種樹公の漢詩碑と共に、大正の始めに高鍋に移されたようで、 漢詩碑は舞鶴神社と八幡の大楠の中程に、石像は現在のところに安置されたと思われる 時代は天文18年(1549年)に安置されたとあるが、串間に、いつ頃、どうしてあったか、など詳しいことは不明であるが、秋月氏の先祖が漢の高祖であることながら、中国における民間信仰の道教神として崇拝されている寒山拾得を、治政の上から、また秋月家の守り神としても代々守護してきたのではないかのことでした

伝説

江戸の藩邸麻布屋敷に安置されていた時、ある夜、時ならぬ時分に『鰯売、鰯売』と呼び声高く巡り居たる者あり、宿直の者が怪しき輩と思い一刀切付けたが、その夜、宿直の者は高熱を発して苦しんだ。翌朝、寒山拾得の石像に、頭から背にかけて刀傷ができていた。これは夜なき石の一例として言い伝えられている。

その後、秋月家に何か異変があると、この傷跡がはっきり出て、夜なきして知らせたという。霊験著しく、よく願いがかなうといわれていて、毎年5月10日に、ささやかながらお祭りをしているが、近隣の人々の信仰も厚く、年中花や供物の絶えたことがない。

供養祭は終わりましたが伝説がのこる寒山拾得お近くにお越しの際には参拝されてみてはどうでしょうか

願い事が叶うかもしれませんよ

1 comment

1 片伯部 淳 { 06.22.12 at 8:59 PM }

宮崎県出身でありながら、寒山拾得と高鍋との関係を今まで、恥ずかしながら知りませんでした。秋月氏の先祖が漢の高祖という関係から高鍋に寒山拾得像があるのも大変興味深く思いました。
宮崎には、百済の里など韓国と関係の深い話は沢山有りますが、中国との関係する話は少ないように思います。
寒山拾得が住んだという「寒山寺」は唐の詩人張継の「月月落ち烏啼いて 霜天に満つ
 江楓漁火 愁眠に対す
 姑蘇城外の寒山寺
 夜半の鐘声 客船に到る」で有名であり、高鍋と寒山寺、つまり、中国とを結びつける絆になると、中国との友好関係を深めることが出来、面白いのでは無いかと思いました。
目を閉じて思いをめぐらせますと、高鍋、佐土原の地形と共に古代ロマンが広がって参ります。
益々のご発展を祈ります。

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